余白。余韻。間。 令和七年は、より一層余白に心を込めるということに努めたい。
なるほどと思った寄稿
一昨年、表現者クライテリオン令和五年九月号の寄稿をこれまでに何度となく読み返している。
日頃、舞が頭の中でモヤモヤぐるぐると考えていることを上手くまとめてくれているのである。
この寄稿の中に
「女性が大学に行かない時代を生きた彼女たちは、決して生活から離れることはなかった。専門的な学問に閉じこもらない、自由な精神で、文学や芸術と向き合えていたんです」
という一文にとても魅了された。
自由な目線、自由な精神で性と向き合いたいから性風俗をひとりで営み始めた。だから、この一文はとてもよく理解できる。
私の母は中卒である。しかし、日々の生活に根ざした母の知恵や思考は高卒・大卒の現代人よりも遥かに賢いのだ。何をするにも知恵があり、それは学校ではなく日々の生活の中で培った知恵である。実態のある知恵だから説得力がある。学問という前提知識がないから、そういう思い込みの知識や先入観に囚われることがなく自由な心で物事に取り組むことができる。その心が向かう先は常に家族への愛であって自分ではなかった。だから彼女はいつも幸せそうであった。
「言葉が、言葉の由緒や言葉同士の関係を無視して、記号化し始めている」
何も考えずにカーナビの指示通りに走っている。すべてのことに対して行動がカーナビ化しているように思う。カーナビ化、記号化することで便利に生活が容易なったのかもしれない。その反面で、人の心、関係性は荒んでしまっている。
何かを得ると何か失う。万物に保存の法則が成り立つ。
この世は人の上っ面な思考した記号で理解できるものではないだろう。コミュ障な人々が増えているというが、記号に振り回され、データに振り回されて、肝心の人を見ていないのだから、コミュニケーションもヘッタクレもあるか!?って思う。思いを排し、空虚な形式、記号だけで人を理解できるわけがないやろって思う。
こう考えると、AIにはできない人間だからこそできることが見えてくる。
寄稿者は言います。
”書かねばならないことは、自らの矛盾や混沌からふと生まれ出る思いであり、歴史に触れた時に覚える感動なのかもしれません。”
”自らの矛盾や混沌からふと生まれ出る思い”
これは、舞が常に意識していることであり、大切にしていることである。自己矛盾や混沌を否定せず素直に受け入れ静かに見つめる。そこから何が生まれてくるか?そこに今までと違った心が生まれ、花が開くのだと思う。